コロナ問題にいつまでも翻弄されるのはなぜ?
「コロナが第7波になった」とマスコミは騒いでいます。
新型コロナウィルス感染症対策分科会の専門家からは、実に幼稚で曖昧な発表ばかりで多くの国民はへきえきしています。
これが、人類の21世紀の科学の粋を集めた英知なのかと、疑いたくなります。
よくエビデンスという言葉が出てきます。
エビデンスとは、証拠とか根拠という意味です。
会議をやった証拠としての議事録もエビデンスと言われます。
つまり、その人の発言の元になる根拠ということで、単なるこじつけでもエビデンスと言えます。
それから言うと政府やマスコミが言うエビデンスとは、科学的アプローチの証拠ではなく、ある特定の所見の根拠データといった曖昧で軽い意味にしか聞こえてきません。
コロナウィルスの専門家と言われる人たちは、本当に日本の科学の最先端の精鋭の人たちでしょうか?
ノーベル科学者とか、もっと本質に肉薄できる凄い科学者がいるはずだと思いますが、あまりのギャップに愕然としてしまいます。
言葉の定義が曖昧すぎる日本人
コロナ問題で言うと、「陽性」「感染」「発症」という言葉が、正確に使い分けされていません。
マスコミでは、「陽性」と「感染」を同一語のように伝えています。
驚くのは、専門家であるはずの科学者や医学者までも、同様であることに違和感というか不信感さえ覚えます。
コロナの「陽性」とは、コロナウィルスの細胞が鼻や口の中から検出されることです。
しかも、その細胞が例え死骸でも、感染リスクの極めて低い微量でも「陽性」と判定されます。
つまり、本来「陰性」の人でも「陽性」と判定されることはあり得ると言うことです。
そして、「陽性」とはコロナウィルスが鼻や口、目などの粘膜に付着していることであり、大抵は粘膜を通過して皮膚の中まで入り込む確率は少ないとされています。
つまり、付着物で終わってしまえば感染に至らないということになります。
感染しても健康な人の場合は発症に至らず、自己免疫で多くの人は自然治癒します。
コロナの話はここまでにします。
なぜなら、「感染」とは何がどうなった状態を言うのか、という「感染」の定義がハッキリしないからです。
しかも、コロナについての信頼できる科学的、客観的な知見が今のところ見つからないので、ただの推測の話になってしまうからです。
要は、一つ一つの言葉の定義が曖昧であれば、本質の追求への道は閉ざされてしまうと言うことです。
いい加減な「和製英語」に惑わされるな!
最近、グローバル化の影響もあって、いろんな英語の単語が飛び交っていますよね。
英語なのに、本来の英語の意味ではなく、勝手に日本語解釈をした単語が多いので、会話の論点がずれてしまったり、問題点が曖昧になって迷宮入りしてしまうケースを多く見かけます。
悪く解釈すると、和製英語は話をはぐらかす道具に見えます。
普段使っている言葉について、問いただすとほとんどが間違った言葉使いしていることに気づきます。
例えば、「マーケティング」という言葉。
自称マーケティングのプロという人やマーケティングの仕事に携わる人は、私の身の回りに無数にいます。
でも、そう言う人と会話をしていると、明らかに間違った言葉の使い方をしていることに気づくことがあります。
ある人は、「マーケティングリサーチ(市場調査)」と混同していました。
またある人は、「販売活動」や「販売促進」と混同していました。
「集客」や「広告・宣伝」と混同している人も多くいました。
私は「マーケティングとは、ある価値(商品やサービスなど)と顧客や市場との関係の最適化である」と私は定義しています。
経営学者のピーター・ドラッカーは「マーケティングの目的は、販売を不要にすることだ」と言っています。
表現は違いますが、マーケティングの本質の捉え方は同じです。
ここで重要なのは、誰の言葉が正しいかではなく、
どの言葉が自分にとって最も本質がハッキリと見えてくるかです。
辞典や事典で意味や概念を調べて何となくわかったような気分になっても、大抵は釈然とせず腑に落ちないことが多いものです。
私は、自分の腑に落ちる言葉に置き換えることにしています。
恐らく、辞書をつくっている人でさえ、全部の言葉の意味を正確に理解している人は一人もいないと思います。
極論を言えば、どんな言葉でも絶対に正しい定義はないのだろうと思います。
しかし、一つ一つの言葉を詳細にかつ明確に定義しないと、堂々巡りして何かについての本質に近づくことができません。
外のある誰かがつくった定義でなくても、自分が納得するだけでよければOKです。
ただ、人と意見を交わしたり議論する場合は、言葉の定義を共通にする必要があります。
そのためにも、自分の中で言葉の定義を明確にしておく必要があると思います。